目次
第一部 映像 NOT 実像
第二部 「観察者」の座
注釈
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本稿は、泉信行が漫画論として発表した《「白さを見る」のか?「白く見える」のか?――岩明均『ヒストリエ』における「神の目」の意識》および、《絵の意識から読者の意識へ――「白を見る」のか?「白く見える」のか?》の内容をアニメ論に合わせる形で全面改稿したものです(それぞれ『Review House 02』と『ビランジ 23号』に収録)。
この原稿の、プラグマティックな要点は大きくふたつに分けられるでしょう。つまり、「映像は実像ではない」という観点の提唱と、「映像そのものに意識がある」という解釈の提示です。
第一部 映像 NOT 実像
■アニメと色
まずは、想像をしてみる。
朝、寝室で目を覚まし……、そして、視界に映るもの全てが真っ赤に染まっていたら……という体験を。
すぐさま、こう思うかもしれない。「部屋が違う! 私がもともといた、あの部屋はどこに行ったの?」と。
あるいは、こう考えるかもしれない。「なにもかもが赤く見える! 私の目は大丈夫なの?」などと。
つまり視界の変化というものは、ふた通りの理解を私達にうながすことになる。「世界の在り方が変化したのか?」それとも「世界を眺める私達の見え方が変化したのか?」……という違いだ。
真っ赤に染まった寝室は、ペンキや、血液がぶちまけられたといった、「外界そのもの」の変貌かもしれない。
その一方で、赤いコンタクトレンズを着けさせられたり、異常なほど目が充血していたり、視覚を司る脳の部位が狂ったりするような、「観察者自身」の変質かもしれない。
人の認識というものは、原理的にそうした二面性を抱えている。目に映る世界は「見た目通りに実在する」のではなく、観察者にとって「そう見える」に過ぎないものだ。
もし、外界の見た目が変わってしまったとしても、「見られるもの=客体」の変化、ではなく、「見ているもの=主体」の変化、という可能性をともなうものだ。
あるいは、なにかの作用が実体の姿(実像)を隠し、見せかけの映像を「見せている」だけだという可能性もありうる。
■「そこにないはずのイメージ」を観察する
私達の瞳は、「実際にはそこに存在しないイメージ」を認識することがある。これは実験で確かめることができる。
実験のためには、「完全に光を遮断できる目隠し」をかぶってみればいい。その時の視界は完全な「真っ黒」にはならないだろう。それまで網膜を焼いていた光が残像となって、かすかな光がチラチラと浮かんでいるはずだ。
一切の光がなくても視界に「なにかが映る」ということは、光に照らされた場所であっても「そこにはないはずのイメージ」が視界に加えられる可能性も示している。
睡眠から覚めた直後は部屋の電気をまぶしく感じて目がくらむし、疲れれば視力が落ちてモノが分裂して見えたりする。なにもかもが色鮮やかに見えるほど気分が昂揚することもある。
これは視覚にかぎらず、あらゆる感覚について言えることだ。音も、臭いも、触感も、観察者の意識によってイメージの内容が変化するのだから。
■映像表現における「そこにないはずのイメージ」
先述した「真っ赤に染まった部屋」が、写真や映画、アニメで描かれた場合のことを考えてみよう。
実写なら、本当に真っ赤な調度品・真っ赤な照明でセットされた舞台かもしれない。レンズに赤いフィルターを被せて撮影したり、CGで加工したりしても用意できる。アニメなら、最初から赤い画を描けばいい。
そうする演出意図はなんだろう? みっつの可能性がある。
まさしくただの「赤い部屋」を登場させたかったから。
あるいは、「視界が赤く染まって見える人間」の視点を描くことで、いわゆる同一化の効果を狙ったから(『カウボーイビバップ』におけるブラッディアイの演出を参照されたし)。
前者は客観ショット的な解釈がなされ、後者は主観ショットとして解釈されるだろう。
残るみっつめの演出意図は、純粋な客観ショットとも主観ショットとも呼びにくい、あいまいな領域にあるものだ。そして、かなりありふれた演出意図でもある。
映画の具体例から見ていこう。北野武監督の映画が「キタノブルー」という、大気に青くフィルターのかかったような映像を作りだす表現は、彼が交通事故の後遺症で色の見え方が変わってしまったことから生じた手法だったという。だから「北野映画の中の空気は青い」と評するより、「北野映画では、空気が実際よりも青く見える」と評する方がふさわしい。この「実際よりも◯◯に見える」という言い表し方は、本論の主軸を支えるので、繰り返し強調する必要がある。
次に、チャン・イーモウ監督の『HERO』を例に挙げよう。あの統一感のあるカラーリングも、キタノブルーと同様に評せるだろう。
衣装の色あいを揃えることで、場面ごとに赤・緑・白・黒と色彩を統一していた『HERO』だが……。そもそもこの映画は、語り部による述懐を中心にして展開する。
再現ビデオやイメージ映像に近いそれは、述懐の内容によって同一人物の着る服の色が変わり、行動も変わってくる。
その映像が「事実をそのまま映したもの」ではないのはもちろんのこと、(特定の個人の頭の中だけにある)主観的な回想のイメージでもないだろう。つまり、その映像そのままの「実体」は客観世界/主観世界のどちらにも存在しない。
『HERO』の映像はあくまで、作中の述懐をもとにしながら「観客に対して見せるように」作られたものだ。あえて付け加えると、そもそも司馬遷の『史記』に取材した歴史映画だという点でも、『HERO』は何重ものメタ構造の上に映像化されている。
ここで、私達が注意しなければならない観点を確かめよう。
映像とはつねに「見せかけ」のイメージを私達に見せているのであり、そのフェイクが生じさせる「実像との距離」が、映像の意義やメッセージを広げることになる、ということだ。
その意義は、
観客の感覚を変えてしまうことによって達成される。
北野映画のキタノブルーは、寒色である「青」と、空気遠近法では遠さを表現する「青」が、観客に「世界が冷たく、遠い印象で見える」という感覚を与えるだろう。それは、北野武監督自身が事故後の後遺症で自ら体験した感覚への追従でもあるはずだ。
『HERO』の色彩も、場面によって移りかわるカラーリングに合わせて変化する私達の感覚にこそ、映像としての価値が表れる。
「美しい景色が、ただそこにある」という美を伝えることだけが映像の役割ではない。
むしろ、実際はそこまで美しくはないかもしれないその景色が、「美しい色彩に統一された景色に見える」という、特殊な「観察者の椅子」に私達を坐らせることに意味がある……と考えた方がよい。
■フィルタリングをする観察者
写真理論や映画理論では、フォトジェニーと呼ばれる概念がある。
《映像が現すものは、具体的対象そのものではなく》という言葉通り、「実写」と呼ばれる映画であっても、カメラレンズを通してフィルムとなり、スクリーンやモニターへと投影される過程で、被写体には新たな情報が加えられ、あるいは取り去られるものだ。その「添削」の際に生まれる、被写体とは異なる価値をフォトジェニーという。
そもそも映画というのは、モノクロームによって色の情報を取り除き、静謐な世界を映しだすことから始まった。後世に至って映画がを手に入れたのも、ただ自然の状態に「似せ」ようとした結果にすぎず、「似せもの」とは「偽もの」の謂いに他ならない。
「真実という仮面に塗りたくられた、テクニカラーという極彩色のペンキ。そのケバい厚化粧を肌色の輝きに見せる努力。しかしあの秩序あるイデアを、現実のまがいものに変えるだけの報われぬ戦いにすぎませんでした」(『トーキング・ヘッド』押井守監督、一九九二年)
いくら現実に近づけようとも、その真実は「仮面」でしかない。だからこそ映画が見せなければならなかったものは、《現実のまがいもの》=ニセモノではなく、現実にある種のフィルターをかけた、固有のイメージだった。
しかしこの「フィルター」をかける存在とは、映画理論では何を指すと考えればいいだろう?
フォトジェニーという、写真理論の用語では不充分だ。カメラ撮影を前提にしたフォトジェニーでは、『HERO』のように撮影対象そのもののが演出を担うケースや、撮影後のCG処理でフィルターを重ねるケースを扱いきれない。カメラの撮影を前提にしてしまうと、手描きのアニメ論に移行しにくいのもネックだ。
それに、応用理論を先にあかしてしまうと、映像におけるフィルタリングは色彩だけでなく、被写体の形状やデフォルメ具合、動き、時間の伸縮、音響までも射程に収めるのだから、カメラやレンズという比喩ではやはり不適切なのだ。
「神の視点」という言葉も悪くないのだが、神という人称は超越的すぎて、余計な含意を招きやすいように思える。
この原稿においては、少し前の文で「観察者の椅子に私達を坐らせることに意味がある」という比喩を用いていた。本論の中心は、この比喩にこそある。だから、映像を実像から引き離すフィルタリングのことは「観察者フィルター」と名付けることにしよう。
そこから、アニメ映像の問題に思考を進めていこう。
■アニメ映像のメタ構造(A)
現実をカメラで写し取った実写映像ではなく、手描きのアニメやCGアニメならどうだろう?
そこでも私達の受け取り方は二重になる。映像をそのまま「そのアニメ世界の実像」として感じるレイヤーと、「観察者フィルターによって歪められた実像」として感じるか、である。
例えば、「紫色の髪の日本人キャラクター」が普通に学生生活を送っているアニメがあったとして、その髪が実際に紫なのかどうかは微妙なところなのだ。
漫画原作のあるアニメならばこの「微妙さ」はよりはっきりとした現象として表れる。モノクロで描かれる漫画なら、キャラクターの色設定であまり個性付けをしないため、髪の色も常識的な色の設定に落ち着きやすい。
しかしフルカラーのアニメではユニーク・カラーが採用されやすいので、アニメ化の時に起こる「映像←→実像の乖離」は受け手の解釈を戸惑わせるだろう(注二)。歴史映画『HERO』の多重なメタ構造同様、原作付きのアニメもまた多重のメタ構造で映像化される。
極端な例を挙げよう。アニメ版『生徒会の一存』の原作小説(注三)は、碧陽学園という架空の高校の生徒会が、自分達の議事録を「やや捏造アリのノンフィクション」として書き起こし、イラストレーターも付けて商業出版したものだという「設定」で創作されている。その上で「とうとう俺達の小説がアニメ化されたわけだが……」などと原作内で語られるのが「アニメ版」という副次コンテンツなのだ。
だからアニメ版『生徒会の一存』の観客は、少し想像を働かせればこのメタ構造について考えざるをえない。必然的に、受け取り方のレイヤーも別れていく。
「目の前の映像に描かれたキャラクター」の姿に実在感を覚え、その作画の出来栄えに応じて印象を変えるレイヤーは「率直な感想」と呼びうるだろう。それに対し、「映像は実像ではない」と思うことで、実像との距離をはかりながらキャラクターをイメージするレイヤーも存在する。
また、『生徒会の一存』ほど実像との距離が遠いアニメともなると、「アニメ版と原作は別物」という感想のレイヤーも起こりうるだろう。
つまり、原作小説を世に出した当人である(はずの)生徒会役員たちを「実像」の位置に据えるのではなく、アニメ版にはアニメ版独自の「実像」がかりそめとしてあり、その仮の実像を眺めている、という認識もできるわけだ。
■アニメ映像のメタ構造(B)
『生徒会の一存』とは違う意味でのメタ構造についても触れておこう。例えば、アニメのキャラクター自身が「だって私達、単なるアニメの絵にすぎないし」というメタなジョークを発するような場合だ。
この場合、そのアニメ世界には「元となるような実像の世界」は存在せず、当然、観察者フィルターによる歪曲もなく、ただその映像のみが世界の全てであることを意味する。映像は実像とイコールに解釈される。
アニメオタクが言い放つ「二次元に行けたらなー」「このキャラクターが、そのまま画面から出てこないかな」といった空想は、この「映像=実像」の解釈と密接したところにある。特にキャラクター自身がメタ発言をしていなくても、「映像=実像」の解釈を自明のものとして受け取っている観客も多いことだろう。
これは、より理想に近い絵柄こそを「真」とする思想だ。アニメでは、演出的な意図や、技術面/コスト面の理由から「絵柄が崩れる」ことが珍しくないが、それはたまたま「真でない」状態になっただけなのだ……と、この思想に従う人たちは考えるのだろう。
■「見る」アニメと「見える」アニメ
アニメのメタ的側面の話から脇道に逸れすぎたが、そろそろ問題を戻そう。
「観察者フィルター」がアニメにどう関係するか、という問題である。
まず再確認すると、映像を鑑賞する私達の感覚の中では、ふた通りのラインが同居している。
それは「見る」と「見える」という区別によって、図のように模式化が可能だ。
「見る」のレイヤーでは、単なるオブジェクトとして映像そのものを眺める。画面の一部に目をこらしてみれば、主線の筆触や、としてのテクスチャ模様も発見できるだろう。それらが「単なる画像」でしかないという、身も蓋もない事実に気付くことも「見る」のラインに含まれる。
「見える」はその対概念である。絵の向こう側に、何か架空の世界が広がっているように感じていくこと。画面をそのまま見るのでなく、その世界を切り取る「観察者」の座に位置するという体験! モニターの前の観客でありながら、「その世界の観察者」の意識と同化していくことを意味する。私達が日常で用いている目のフィルターが、「観察者のフィルター」に置き換えられていくようなものだ。
フィルタリング済みの「映像そのもの」を客観的に受け取るのが「見る」。
観察者の位置と重なって、「映像の向こう側」をダイレクトにフィルタリングするような意識が「見える」。
■「見かけ」の意味
アニメの映像を眺めていると、それがいかに「私達が日常で用いている」目のフィルターを別物に置き換えているのかが、判ってくる。
セル画の主線は、ものの輪郭を現実よりも明らかにするだろう(本来なら現実世界に「輪郭線」など存在しないのだ!)。
キャラクターの背後にあるはずの風景は、その質感がキャラクターとは異なるだけでなく、省かれて描かれなくなる(見えなくなる)ことがある。
物理的には見えるはずのないもの(怒気のオーラなど)が、抽象的に「見える」こともある。
三次元の立体感は、奥行きをデフォルメされて、二次元でしかありえないパースで描かれる。
目立つべきものはより目立ちやすく、美しくあるべきものはより美しく、写実的でよいものはより写実的に、平面でよいものは立体感を失い、見えなくてもよいものはより見えにくく、アニメは実像にフィルターをかけていく。
『バカとテストと召喚獣』、『デュラララ!!』などの最近の作品では、無名のモブキャラクターは輪郭だけで描かれ、役割のあるキャラクターたちと見た目で区別する演出が成立している。これは、それらの映像の「観察者」が、ドラマ上で目立つものを「良く観察し」、そして目立たないものは「あまり観察しない」という選別を意味している――これは私達が日常的に行っているフィルタリングをうまく模した演出だ。「大切ではない他人」の容貌が意識に登ってこないように、アニメの観察者も、重要ではないキャラクターを意識して見ようとしない。
アニメにかぎらず、偶像を用いた視覚表現は、誇張や捨象の連続なのだ。そして、その連続によって、「観察者」は一定の雰囲気・人格を備えるようになっていく。
前述したように「観察者」という概念は、「客観」という言葉とも一致しないし、物語の語り部役にも一致しない。
第三者的で、特定の人格を持たない「誰でもない者(Nobody)」であるはずだ。しかし、映像がある種の雰囲気……つまり作品としての「個性」を備えていくと、なんらかの「意識」を必ずはらんでいく。
つまり、作品ごとの「観察者」に個性があり、性格や嗜好もあるということだ。
ライトノベルの挿絵や、ビジュアルノベルのCGでも、「地の文の内容」と「イラストの描写」が食い違っていることはままあるだろう。その多くは特に意味の無い、単なる描写の矛盾・誤謬にすぎないかもしれない。だがもし、実際の内容と、その見かけが食い違うことに意味が見出せるとしたら……? 「それ」について考えてみたいとは思わないだろうか。
この原稿の前半では、「映像(見かけ)は実像ではない」という本論第一のテーマが口酸っぱく説明されてきたと思う。その観点については、もう強調を要しないと信じよう。では、そこから次に踏み込む第二のテーマこそが、「映像そのものに意識がある」という問題なのだ。
第二部「観察者」の座
■「観察者フィルター」を借りて眺める
ひとつのアニメに没頭する観客は、徐々にその作品の世界へのめりこんでいくものだ。注視することで視界のフレームが狭まってゆき、「画面の外側」に空間があることも考えなくなる。ついには「映像そのもの」を眺めるというより、「向こう側」の世界を眺めるようになっていく。
そういう没入感は、多くのアニメ視聴者が体験することだ。これは特別なことではない。
次第に観客の意識は「観察者フィルター」と折り重なり、そのフィルタリングのされ方に慣れていく。そのフィルターを施している「意識」との親和性が深まり、意識の上書きが行われていく。
この「観察者の椅子」に坐ることで、私達の意識がどう上書きされているのか、というのを逆の観点から考えてみよう。例えば、セルアニメのキャラデザインやコスチュームデザインで使われるような色指定を、現実のデザインに持ち出すと、ケバケバしい「エグさ」が生じるのはなぜか? アニメのコスプレ衣装や、ウイッグの色が現実では浮かざるをえないという、あの落差への疑問である。
「何を当たり前な」と思うような問題だが、まさにこの落差を「当たり前」と受け止めること自体が、アニメと現実では「観察者としての意識のフィルター」が別物であることの証明になる。
アニメの世界では、すべてのものがアニメ的なカラーリングで「見える」フィルターで描かれている。しかし、そのカラーリングが現実に飛び出した場合、私達はあくまで現実と同レベルのフィルターで「見る」だろう。
実像ではないはずの映像に用いられていた色が、実像として登場する違和感である。
だからアニメの色設定を現実で使用するには、両者のフィルターの落差を計算して、バイアス調整をかける必要がある。色温度を下げたり、濃淡をコントロールすることで、アニメ世界のフィルターを現実のものに近付けることができるだろう。コスプレ衣装の制作では、経験的に実践されている工夫だと思う(注四)。
■共感覚で伝えられる情報
観客が「観察者フィルター」によって得ているのは、単なる視覚の問題ではない。
何より映像の情報というのは、人の五感の「視覚」のみに訴えるものではないからだ。他の五感にも影響する情報になりえる。
作画の線が「硬い/柔らかい」といった印象は触覚を……、色彩の「寒々しい/暖かい」といった印象は温感を……といった具合に、共感覚を呼び起こすだろう。
共感覚とは、一種の五感が、別の感覚を刺激したり、連想させたりする現象を指す。その共感覚も「観察者」の個性に含まれる。
例えば、暖色としてのオレンジ色が「見える」フィルターがかかっているシーンなら、その場面を眺める観察者の意識は「赤く見える意識」に変化しているだけでなく、「暖かく感じる意識」も一緒に備えている、とも言えるだろう。
観客が「観察者」と同じ視覚を有することで感じるモノは、視覚情報だけではないということだ。
■「過去」と「暗闇」のフィルター
フィルターが伝える情報について、具体的な演出を挙げてみよう。
よく見かける演出だが、過去に遡ったシーンや、回想シーンではセピア調のフィルターがかけられることがある。まるで古い映画のフィルムのように、縦線のキズや糸クズのノイズまで再現することもある。
これをメタファーとして考えるなら、セピアカラーは古いフィルムを連想させ、「セピア調に見える」体験は「古い記録に触れている」感覚に変換されるからだろう。また、自然界の赤茶色は「酸化」で生じる色でもあるので、空気に触れつづけた紙が茶色くなっていくように、セピアカラーは「記憶の経年劣化」を感じせやすいのだろう。もし私達が、視界を古い映画のように変えてしまうメガネを手に入れたとしたら、「まるで喪失した景色を見ているような」気分を楽しめることだろう。
この演出のポイントは、私達が過去をイメージする時、そのイメージがセピア色に染まるわけでもない……つまり、実際の回想がセピア色だとはかぎらないのに、「セピア色のフィルターからは過去が連想される」という点である。あくまで、映像のフィルターを通したらセピア調に「見える」、というだけなのだから。
「過去」を表すフィルターと似たものに、「暗闇」のフィルターがある。暗闇というと、平易に言い直せば「真っ暗」ということなのだが、アニメで本当に真っ暗にしてしまうと何も描けないため、周囲が薄明かりに照らされたような映像にすることが多い。
しかしキャラクターたちの視点では……つまり映像の向こう側では「光がどこにもない」という状況のはずなのに、観客には視認可能な映像が作られているのだ。観客にだけ、暗視のできる「観察者」の席が与えられていると言える。
だとしても、実際はもっと暗いはずなのに(キャラクター自身は前後不覚になるような)、その場面をわかりやすく描くためだけに薄明かりをもたらす手法には、どこか違和感も残る。
その違和感をやわらげる演出が近頃では多用されている。薄明かりで表現されていた「暗視のフィルター」を、暗い緑色のフィルターにする手法である。実写でも良く見かけるし、最近のアニメでは『デュラララ!!』『Angel Beats!』などで確かめられる。
暗闇の演出をより自然に見せるこの「緑色」は、偶然の産物かもしれないが、暗視装置(ナイトビジョン)が映す「緑色」の視界を連想させるものだ。
私達は「暗闇なのに薄明かりで見える」という経験をしたことはない。だから、従来のアニメの演出では不自然に感じてしまう。しかしナイトビジョンを通した暗視映像ならば見覚えがあるため、馴染んだ意識で見えるのではないかと思う。
あるいは、過去を象徴するセピア調が、「古い映画のようだ」という知識に依存するのではなく、茶色=劣化色だという本能的な連想もありえるように、「暗視の緑」の自然さも本能と関係しているのかもしれない(注五)。
なお、パソコンの動画編集ソフトでは「Aged Movie(=年代モノの映画)」や「Night Vision」という、そのものズバリなフィルター機能が存在している。私達が観察者フィルターと呼んでいるのは、まさしく映像のフィルターを模しているわけだ。
また、『デュラララ!!』と似た演出で「暗闇の中の緑」を用いたアニメに、『劇場版「空の境界」』がある。夜のシーンが多いこのアニメでは、大抵の背景美術が緑系の暗色で塗られていたのが印象的だった。
ただし『空の境界』の緑は、暗闇の演出とは別の理由で採用されていそうなところもある。流血シーンが多く、主人公の服装が赤。赤い髪のメインキャラもいるこの作品では、緑をコンセプト・カラーにすることで色の調和を取れるからだ。赤と緑に映像を染め上げた、映画の『アメリ』に近い美術的な理由であろう。『空の境界』も『アメリ』もコンセプチュアルな作品であり、世界の色彩に「フィルターをかけた」統一感が美しかった。
その上で『空の境界』の背景美術は特徴的だ。さびれた廃ビルなどの、長い雨雪を耐えたような建造物が中心となる『空の境界』では、緑色にはまた別のニュアンスが加えられる。
のような、錆付いた色のニュアンスである。錆といえば酸化の代表だが、「赤茶色」と同じく、「緑青色」も経年劣化をイメージさせるのだ。ヘドロや毒のように、退廃的な「危険物」の色でもある。
カーキオレンジ(黄土色)やカーキグリーン(枯草色)のカーキ色は、人に好まれやすい色の系統だが、黄土も、枯草も、酸化によって創られる色だ。
思えば、血や紅葉の赤も酸化の色だ。人間は、酸化した色に惹かれるところがある。
そして、「景色が暗い赤と緑で見える」フィルターで作られたアニメを鑑賞することで、私達はエキゾチックな意識を体験することができる。
■観察者の人格
単純な感覚を越えて伝わっていくものは、まだまだある。性格や嗜好、精神年齢、といった「人格」の情報がそうだ。
先述したことだが、「観察者」には作品ごとにユニークな個性がある。
性別や年齢に近い情報もあり、性癖や嗜好を有している。その意識感覚と同調するような経験を踏むことになるのが、「観察者の椅子」に坐っている私達、観客だ。
例えば、精密に細部まで描き込まれた作画のアニメならば、私達はハイテクカメラのごとく高解像度の視力と、注意深い空間把握力を持った「気がする」。
少女の幻想をそのまま絵にしたようにリリカルな画風ならば、私達はまるで年頃の女の子になったような「気がする」だろう。
前者は感覚の「拡張」であり、後者は「変質」として説明できる。そしてこの「◯◯になったような気がする」という同化現象は、感覚の共有だけにとどまらない。
「そんな感覚を持っているであろう、観察者の感性や精神」への同化も含むのだ。
つまり私達観客は、前者の場合では「パラノイアックなほど過敏な注意力の持ち主」となり、後者の場合では「少女のような価値観や恋愛観の持ち主」となる。
それは作品によって異なる。同じ作品内でも、コロコロ千変万化する。観察者は、多重人格的なのだ。ただし、主観ショットが多用されるアニメなら、フィルターをかけるのは観察者だけではない。正確には、登場人物が主観的なフィルターをかけた上で、それよりもメタレベルの「観察者」がフィルターを上乗せするような関係だろう。
アニメ版『君に届け』などで、キャラクターの主観的なフィルターと、観察者の全体的なフィルターの「多彩さ」を確かめられる。ヒロインの周囲の空間が、まばゆいほどに輝いて「見える」シーンがある一方で、どんよりと重くて暗い空気になって「見える」時、それはいったい誰のフィルターが作用しているのかを想像してみるといい。
■女性らしさや子供っぽさや
「観察者」は、感情にとぼしい機械的な性格でもありうるし、情緒豊かで人間理解の深い性格でもありうる。
例えば、女性向けアニメで描かれる男性キャラは、明らかに「女性的な性の視点で」そのルックスが誇張されている。女性ではない観客がその絵柄に「見慣れる」ということは、その絵をただ見ているだけでなく、「女性が好みそうな美意識や性的嗜好」を追体験していることになる。
そこに共感が無かったとしても、「女性らしい観察者」と同じ椅子に坐った、という「体験」はしているのだ。
普段、同性キャラに対してセクシャルさを感じたりしない男性が女性向けアニメに触れた時に。やはり違和感や抵抗を感じるか……あるいは「女性向けの美意識」に感情移入できるかという違いは、この追体験に慣れるか慣れないか、で分岐してくる。
また、児童向けアニメの「子供っぽい絵柄」を眺める時もまた、私達は「子供っぽい観察者」の椅子に坐ったことになる。
次第にその意識は、「世界が子供っぽい感覚で見える」ように馴致されていくだろう。そのアニメにおける「観察者」の精神年齢に慣れていくのだ。
年齢だけでなく、ジェンダーや、性格や価値観にいたるまで、その作品が持つ「雰囲気」のようなものは、すべてこの「観察者」の人格の問題として説明できる。
■動きと時間にかかるフィルター
ここまでは、あくまで一枚の静止画でも通用する類いの問題を扱ってきた。
しかしアニメがAnimationである以上、「時間」や「運動」が表現されていることを論から省くわけにはいかない。
簡単に言えば、動きの映像表現もまた、先に挙げた「ハイテクカメラのような視力」の例と同じなのだ。その観察者がどのような注意力や、対象への関心を抱いているかが、動画表現には表れてくる。
ある作品のあるシーンでは、「激しいアクションでもつぶさに動きを追える動画」が描かれるだろう。
別の作品では、「動きの始まりと結果だけしか視認できないくらい見えにくい動画」が描かれるだろう。
前者のアニメでは、「超人的なスピードでも見逃さない動体視力」を持つ観察者が、「拡大された意識」を観客に追体験させているケースだ。
後者のアニメでは、「動きの途中を見逃してしまう程度の注意力」しか持たない観察者が、「限定された意識」を追体験させていると言えるだろう。
そのシーンが、実際の時間進行よりも早いのか、それともスローなのかも重要だ。「ネズミの時間とゾウの時間」のごとく、ものごとのスピードをどう意識しているかがそれで決まる。文字通りに「10分をあっという間に感じる」程度に時間を流しているかもしれないし、「1秒を数分に感じる」ほどに集中した意識かもしれない。
また、ヒロインの正面顔ばかり映す、ヒロインの胸・腰・脚etc.ばかり映す、遠景ばかり映す、ローアングルばかり映す……といったカメラワークの偏りからでも、その観察者の性質が窺い知れようものだ。カメラワークに関する、「ナメるような縦PAN」というようなフェティッシュな寸評も、観察者の嗜好に対して思う感想だろう。
もちろん、私達はその観察者と、否応なく同じ視点で眺める立場なのだから、「他人事」の性癖ではなくなる。
そしてシーンごとではなく、作品全体の作風として「アニメーションのスタイル」を構築することで、より個性的な「観察者フィルター」が出来上がる。
そのようなアニメに没頭するということが、感覚の変化として楽しめる「アニメの面白さ」だ。だからアニメーターの作画力を、ただ単に「良く動く」という表面的な派手さや、「難しい動きを描ける」という技術で評価する前に、こういった
「どのような感覚でその動きが【見えて】いるのか」によってその動画の価値も変わるのだ。そんな観点を持ってみてほしい。
■音にかかるフィルター
そして当然のことながら、大多数のアニメは「音声情報」を含んでいる。アニメの音もまた、観察者のフィルタリングを経たものだ。つまり観客は、「実際よりも◯◯な音に聴こえる」という体験をいつもしている。
だから、アニメ音響のひとつひとつが現実離れした「デフォルメ音」であることや、普通なら聴こえるはずの雑音がシャットアウトされる現象や、エコーがかかって聴こえることの意味を考えるのは興味深いことだ。
特に、アニメキャラクターの声の多くが「アニメ声」と呼ばれる声優の声で演じられる事実は、先述した「アニメの色と現実の色の落差」と同じロジックで考えられることである。
■三重にかかるフィルタリング
本論のもととなった漫画論では、最終的なビジュアルに還元するフィルターは三重に存在する、と述べていた。フィルターのかかる順番で挙げていくと、「世界観への還元」と、「画風への還元」、最後に「メディアへの還元」と続く。
「世界観への還元」は捨象に属し、登場してもいい対象と、登場してはいけない対象を分ける。ほのぼのとした作品に犯罪者やセックスは登場させられないし、「主人公と似た見かけのキャラクター」というのは、自然に考えてみれば登場してもおかしくないのだが、まぎらわしいので登場させない。映画の撮影で喩えるなら、そもそもそういう役者は「カメラの前に立たせない」わけだ。しかしだからこそ、観客はレギュラーキャラたちを見分けやすくなる。
そして
「画風への還元」は抽象/誇張に属し、「実際よりも◯◯に見える」という、まさしく観察者の人格に繋がったイメージを生むことになる。ここでは、登場しているはずのものを「見えなく」したり、存在してないはずのものを「見える」ようにする操作も行われる。
最後の
「メディアへの還元」は、制作された映像がメディアに流通する過程での変化を指す。保存形式によって画質が変わるのはもちろん、ディスプレイやスクリーンのコンディションによって映像の質は変わる。画面のサイズによっても変わる。劇場の大スクリーンと、モバイルのディスプレイでは、文字通りの意味で「見え方」が異なるのだ。
最終的に受け手が鑑賞するまで、アニメ映像にはここまでのフィルターをかけている。みっつめのフィルターにかぎっては作り手側が関与しにくい要素ではあるものの、これらのフィルタリングの総合が、私達の意識を変えていくフィルターとなる。
■漫画論と並行するアニメ論のために
本論の原型となった漫画論から、重要と思われる箇所をそのまま引用してみよう。
■漫画の絵であることの意味
そもそも、日本の漫画の多くが白黒のモノクロで描かれる現在、この〈〜のように見える〉の感覚はいつでも体験していることだと言えるだろう。
モノクロ漫画を読みふける読者は、ただ「白黒の絵を見ている“私”」という存在ではいられない。
次第に、「世界が白と黒で見えるようになった“私”」として、漫画の向こうの世界を眺めていることになるのだ。その時の意識感覚の変化・変調が、漫画を読むことの楽しさ・面白味に直結していることは言うまでもない。
以上と同じことが、アニメについても言えるはずだ。アニメには、アニメ固有の意識感覚を「見せる」力がある。
その「見え方」にどんな面白さや価値があるのか、という思考にこそ、アニメの力を原理的に考えるカギがある、と言ってもいいだろう。
■より原理的な評価と、より大きな感受のために
アニメの映像というのは、ただ作画が綺麗だとか、良く動くといった技術的クオリティだけで面白さが決まるのではない。
観客の意識をいかに上書きするかという、コンセプチュアルなフィルタリングの個性こそが素朴な評価を左右する。
「活きた」アニメの映像というのは、まず「実際よりも◯◯に見える」というレベルまで観客を没入させた時に、いかなる意識を与えうるかによって死活が別れる。
それは、単純な作画力の問題とは異なった、より原理的な、映像と演出の問題である。
そして、こういった「映像そのものの意識」を強く探るようにアニメを楽しむことにも意義がある。そのアニメは、私達の目をどう変化させてくれているのか? 他の作品とフィルターがどう違うのか? そう意識しながら視聴していると、アニメから受け取れる情報や感動というのは、何倍にも増幅されることだろう。そこには、「見逃しては損をする」大切な情報も含まれているかもしれないのだ。
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注釈
【注一】 浅沼圭司『映画学』紀伊國屋書店、九四頁。
【注二】 『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦のように、「キャラクターの色は設定しない」という思想の漫画家もいる。だから荒木飛呂彦のカラーイラストは、その都度に別途のカラーフィルタリングが行われているわけだが、荒木の自由なカラーリングは、画家のゴーギャンの影響があると公言されている。
【注三】正式タイトル:『生徒会の一存―碧陽学園生徒会議事録<1>』
【注四】 逆に、現実の景色をセルアニメの中に持ち込んでも、激しいコンフリクトが生じるだろう。『魔法遣いに大切なこと 〜夏のソラ〜』の、リアルすぎる背景美術がそうで、あまり成功した演出とは言えなかった。
【注五】ちなみに、緑色は「もっとも人間が知覚しやすい」とされる中間色である。暗視装置の色に採用されているのも、知覚のしやすさが理由になっている。